旧.粕屋郡および周辺部の古老を尋ね廻り犂の呼称を聞いてみると、近代農業史上有名な「抱持立犂」は実際にカカエズキと呼ばれていたことが分かる。そして大正期に改良型が普及すると、カカエズキは田から逐われて畑の作条用に零落したことが、彼等の子どもの頃の農作業の思い出として残っている。いっぽう「クレ拾い」という言葉が、これは実際の作業に参加した経験ではなく幼少時に眺めていた農作業の風景として記憶されているのだが、カカエズキでは反映された土クレ(土塊)が大きく、これを一個づつ拾って鍬で砕いでおかねばならなかったという。 彼らが犂耕を初めて習得した大正初期の頃には、鉄の犂床と鋼板製の曲面のへらを備え土の反転とクレの粉砕に有利な改良型の犂が登場するが、こうして「クレ拾い」の手間が解消される以前の時期を、彼等は「モッタテ時代」とも呼んでいる。具体的な聞き書きの場に突出したこの「時代区分」の発想は、農学の知識がムラへ還流したものといえるのかも知れない。昭和以降、我が国の犂の分析や研究をリ-ドした九州帝国大学農学部は、同じ粕屋郡にあって近隣の農家や農機具商と密接に交流していた点からみて、その源郷のひとつであった可能性がある。 その講座の初代教授.森周六博士は地元の彼等の仕事場に出入りしてデータを収集し研究成果を還元していったと故老たちは語るが、極めて具体的な形での「産学協同」体制の至近距離で犂を駆使していた彼等にとって、それはもはや父祖伝来の在来農具ではなくなっていたと考えてよいだろう。さらに青年時代の彼等を襲った農村恐慌は、犂を駆使する「百姓仕事」を、極端な高給が約束された犂の実業教師として世に出るための特殊技能へと変質させるのである。抱持立犂の「本場」に育った彼等は、犂の操作を小学校を終える頃から一種の精神修養として青年団の先輩たちに叩かれながら厳しく仕込まれ、村や郡ごとに開催される「競犂会」の成績で「男」としての名声が測られた。 本研究では、行政と技術と歴史が個々人の生をどのように揺り動かし、また個々人の生がそのようなものをどのように彩っていったのかという、極めて平明な事項をインタビューと特許資料などをもとに辿った予備的研究である。
|