研究概要 |
「唐人」とよばれた中国人たちは長崎において「唐人町」を築かず,日本人と何らの区別なく長崎の町に雑居していた。その理由は何か。この理由の解明が「唐人屋敷」成立以前の長崎華僑社会を解明するためには必要である。日本人と中国人とを区別しないこの雑居状態は「倭寇」とも共通しており,「倭寇」は「華僑」の東方発展の一形態であると考える。国境を越え,アウトローとされた人々が「倭」をもって結合した理由は何か。それを明らかにするために,我々は日中関係の全てを見直す必要がある。 「宋」代以降の中国が陶磁器・絹織物・銅銭などの工業製品を東南アジア諸国に輸出することによって成立した「東アジア交易圏」は同時に「中国銭流通圏」でもあり,日本社会は経済的には中国社会と一体で,中国銭はそのまま日本でも流通した。一方日本は中国に向けて宋代には「金」を,明代には「銀」を,清代には「銅」を輸出したことから,日本は中国の「物産複合」の影響下にあった東アジアの他の諸国とは異なり,歴代の中国に対して優位に立ち,政治的な自由を主張することが出来た。 「東アジア交易圏」における中国と東アジア諸国との関係には「冊封関係」「修貢関係」「体制外通商関係」の他「アウトローの通商関係」としての「倭寇」がある。朝鮮・ベトナムなどが「冊封関係」を基本としているのにたいして,「宋」代以降の日本は,一方には「アウトローの通商関係」としての「倭寇」がありながら「体制外通商関係」を基本的な外交方針とした。「元」は「倭寇」対策上日本に「修貢関係」を求め,「明」は室町幕府と「冊封関係」にあった。国内的にも,日本は中央集権的な中国社会とは異質な「封建」社会を築くこととなった。このような条件下で,日本社会は外国人に開かれた社会となり,中国人の雑居は可能となった。
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