研究概要 |
1.「唐人屋敷」成立以前の長崎の華僑社会を解明するためには次のような課題がある。 (1)なぜ「唐人」とよばれた中国人たちは長崎において「唐人町」チャイナタウンを築かなかったのか。 (2)なぜ中国人は長崎の町で日本人と雑居していたのか。 2.この雑居状態は「倭寇」とも共通しており、「倭寇」は「華僑」の東方発展の一つと考える。このような観点に立つと,国境を越え,アウトローとされた人々が「倭」の名前で結合した理由は何かが新しい課題となり,日中関係史の見直しが必要になってくる。 3.「宋」代以降の「東アジア交易圏」は「中国銭流通圏」でもあり,中国の「物産複合」の影響下にあった。一方日本は中国に向けて宋代の「金」輸出に始まり,「銀・銅」と貨幣商品を輸出した。その結果日本は経済的には,中国銭がそのまま日本でも流通するなど,中国社会と一体でありながらも,政治的には中国に対して優位に立ち,中国の影響から自由な体制を築くことが出来た。 4.その具体的な表われとして次の三つを挙げることが出来る。 (1)対外的には中国皇帝を中心とする華夷秩序に敵対する「倭寇」を生み出したこと。 (2)日本の外交方針の基本は「体制外通商関係」で,朝鮮・ベトナムなどと共通する「冊封関係」は室町幕府の時のみで,幕府が解体すると「勘合貿易」は「倭寇」にとって代わったこと。 (3)中世の日本社会は「郡県制」的な中国の中央集権体制とは異質な「封建制」の社会であったこと。 以上の結果,日本社会は外国人に開かれた社会となり,中国人の雑居は可能となった。
|