寺社に対する徳政、興行政策がどのようなものであったのか、また、そもそも王朝と幕府は寺社に対してどのような政策をとっていたのかを課題としてさまざまな角度から検討を加えた。1.公家新制にみる王朝の寺社政策。 公家新制の条文において王朝の寺社に対する政策の変化を概観した結果、鎌倉中期に寺社は国家によって統制できる存在になったこと、内乱期に焼失した伽藍の復興だけでなく、寺社領の保護すなわち興行や、寺社裁判の興行が推進されると推定した。2.鎌倉幕府法に見る寺社政策。 鎌倉幕府の寺社政策を幕府法から分類、概観した結果、当初、鎌倉中あるいは関東・東国の寺社を対象として発布されていたのが、明確に弘安七年の改革を画期として全国の寺社とりわけ伊勢神宮や一宮、国分寺へと対象範囲を拡大したこと、幕府による鎌倉市中の寺社および供僧に対する強い保護と統制があったことが明らかになった。鎌倉市中の寺社の別当や供僧は、まさに将軍との間に主従関係を結んでいるのである。3.関東祈祷所と将軍。 関東祈祷所の僧の補任権は基本的に将軍にあることを確認し、公方論に言及した。4.権門寺院の長官人事に対する鎌倉幕府の関与。 醍醐時座主、延暦寺座主、東寺長者を例として、その任免に対する幕府の関与のあり方を概観し、承久の乱以降次第に幕府の関与がみられ、鎌倉中期には幕府の指示がなければ王朝は独断で補任を決定することができなくなっていたこと、こうした権門寺院の長官には、いわゆる「幕府僧」が鎌倉居住のまま補任されている例があること、そのなかには北条氏一門の僧がみられること、等が指摘できた。5.鎌倉末期の興福寺大乗院門主。 本来、補任権がない王朝による門主の補任が、後醍醐天皇親政期に行われたと推定した。
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