本研究では、かわた村をめぐる「本村-枝郷」関係(仮説)に関し、(1)岸和田藩領のかわた身分の村が幕府や藩によってどのように把握されているか、(2)藩の統治下、かわた村はどのような行政システムによって統治・支配されていたか、(3)かわた村と隣村(百姓村)との間にどのような社会関係が形成されているか、について検討した。 第一の点は、主として幕府の指示によって作成された国絵図、郷帳等に領内かわた村(南郡の嶋村、日根郡の鶴原かわた村・瓦屋かわた村・滝村がどのように記されているかを検討した。嶋村・滝村は村高とともに村名が記され、鶴原と瓦屋のかわた村は正保・元禄期より村名のみみえる。このように四か村は記載方法は多様であるが大きく幕藩領主権力の直接統治対象となるかたわら村と、本村に包含された枝郷の二種が確認される。嶋村の慶長検地帳は、隣村福田村の帳と合冊されているが、高は合計されておらず、枝郷でないことが判明する。嶋村は慶長絵図でも名がみえないが、この当初の非独立性はやがて記名されるとともに隣村福田村の「預り支配」を生み出す。 第二の点は、「預り支配」下の文書様式論として検討した。嶋村で作成された文書(上申文書・下達文書・契約文書等)が何故、今日「支配」担当村庄屋福原家(福田村)に伝存されていたかという問題と密接に関わっている。すなわち、藩の行政機関と村高のある独立村である嶋村との間に福田村庄屋福原家が介在し、嶋村から上申する場合、福田村庄屋が書き直して提出するという独特の様式が存在した。このような身分秩序に基く行政システムの存在が確認された。 第三に文書の形式に注目してみると、とくに上申書の場合、18C末頃以降、文書の宛名(「福田村庄屋孫左衛門」)の名が異常に大きくなっている。これに象徴される社会的格差の拡大が顕著となっていることが確認された。
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