史科調査を行なった旧小田木村(現愛知県北設楽群稲武町小田木)では、小学校教員青木福治郎が勤務のかたわら卒業生=青年会の指導に当った。「地方改良」が叫ばれていた明治後期の小学校教員としては、国家の要請による当然の行為とみられる。当時他の地域でしばしば問題となった江戸時代以来の伝統的若者組存続派と村落共同体外部の人間である教員指導の青年会との対立や、村落内における青年組織の全般的弱体化は小田木村では顕在化しなかった。教員青木福治郎が同村の出身であり、師範学校卒業以来、同郡内の学校に奉職し、その後半生を故郷小田木校の訓導・校長として過ごした人物である。教員青木の青年会指導は、青木がもともと協同体内部の人間として自他の認めるところであり、自らが若者組の活動を体験し、その伝統を継承する立場にあった。これに加え、隣接する稲橋村は豪農古橋家(当時、6代義真郡長・7代道紀村長)と維新の草莽、神宮佐藤清臣らの指導下、村落共同体の強化によって、幕末期の荒廃から立直り優良模範村であり、小田木村は直接その影響を蒙り、同じ道をめざす村風であった。 青木の指導下に、小田木青年会は「順調」に発展し、村の中核たる青年組織としての機能を維持していたが、一面、やはり国家が求める時代の青年像への陶冶が進められたことも事実であった。 教員青木の役割り、青年会の運営と時代社会に果たした機能などを、国家と村落共同体との間に揺れつつ、その矛盾を自覚することが少なかった青年たちの姿や内面を語る「青年会誌」の記事の分析を通じて解明したい。 「継続」研究による次年度に小田木「青年会誌」のプリントを行ないたい。今年度分についての研究発表はない。
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