雨森芳洲は御用人を免じられその功労として公作米年限裁判に任じられ約一年半、朝鮮との交渉のため釜山に滞在した。本年度の調査は芳洲がその裁判役を終え帰国後から隠居するまで(亨保15^^<1730>〜延亨5年^^<1748>)を中心に行なった。調査は昨年度にひきつづき対馬藩の表書札方、奥書札方、組頭方の毎日記を中心に行なったが、本年度はつぎのようなことに留意しながら調査を進めた。 (1)藩制の全体像を把握し、芳洲の藩内での立場を明確にする。(2)芳洲の三子(顕之允、賛治、玄徹)について藩政史料から事蹟をあとづけておく。(3)芳洲の弟子(このころでは阿比留太郎八、大浦益之進の二人が代表的存在)について育成の経過と奉公までをあとづけておく。(4)芳洲が深くかかわった朝鮮方の実態を明確にし、なお年寄がつとめる朝鮮御用支配の業務を明らかにする。 毎日記の調査計画は若干遅れている(阪神大震災のため拙宅が被災し、そのため昨年3〜4月に予定していた調査が行なえなかったため)が目下、鋭意その回復につとめている。調査研究の成果については昨年度にひきつづき発表しつつあるが藩制の全体像と朝鮮方の実態解明が進捗しているのが第一にあげるべき成果といえる。本研究はその基盤のうえに立っているが、なお対馬藩の毎日記にみえる史料から芳洲の三子、及び弟子をめぐる芳洲本人の苦悩や努力、教育者としての配慮等を立証して行っている。従来の芳洲をめぐる論著には宗家文書を根幹にしたものはない。それゆえ対馬藩の藩制を誤解し、芳洲に対しても根本的な誤論を展開しているが本研究はそれらを徹底的に訂正できるものと確信している。
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