本研究は対馬藩の藩政史料である「宗家文書」のうち国元の表書札方、奥書札方、組頭方の各毎日記を根本史料とし藩儒であった雨森芳洲(1668-1755)の対馬藩への出仕から対馬府中で死没(88歳)するまでの行状を実証的に跡づけることを目的とした。 本研究は最終的には『対馬藩藩儒・雨森芳洲の基礎的研究』としてまとめ平成9(1997)年12月に関西大学出版部から出版する予定で目下原稿を執筆中だが研究の成果報告としてはその第二章にあたる部分、すなわち元禄2(1689)年、芳洲が対馬藩へ出仕してから元禄11年、長崎における唐音稽古を終え対馬へ赴任するまでをとりあげた。 報告書の内容は 1 江戸召し抱えの芳洲 2 再度の唐音稽古と対馬への移住、の二節から成っていて、1では木下順庵のもとでの学問修行と長崎での唐音稽古を中心に、2では藩主義倫の侍講のあと、再度長崎への遊学を中心にのべたが、この間、元禄6〜12年に朝鮮国との間で竹嶋(蔚陵島)の漁業権をめぐる外交問題がおこり、これにかかわったと考えられる芳洲についてもとりあげておいた。
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