東国における人々の高野山参詣は、相模国のおける事例をとってみると、既に中世末期には確立していたといえる。その後、近世期に入って高野山参詣は増加してくるが、その隆盛は特に中期以降の所謂社寺参詣行動と連動してみられる。しかし、東国人の高野参詣の動向と形態は高野山参詣とうい単独で表出するものではなく、むしろ高野山を含めた伊勢神宮や各地霊場・札所、或いは京・大阪・奈良といった寺社や古跡名所に富んだ地域との複合的参詣スタイルを採ることが一般的な傾向である。 このような参詣行動の傾向が、東国においてどのような文化的影響を与えたかといえば、ひとつには、参詣人ら自ら筆記する「道中記」等を借りた日記に表出してくる。本研究は庶民階層の「日記論」を考究したものではないが、道中日記の多出は庶民階層と文化の接点で大きな文化活動であった。 次に、高野山を含めた各寺社や名所・旧跡地側における文化的動向の顕著なもののひとつとして、地図や絵図、案内誌の刊行など在地の出版文化に影響を与えたといえる。一方、中央出版においても、各寺社の案内誌や道中記といった出版物を多刊したことでも理解されるように、参詣行動の隆盛は無関心ではいられないことであった傾向を捉えることができた。また、高野参詣を含めた参詣行動の隆盛を特に高野山に例をとって、高野山山内図の刊行に視点をあて分析を試みた結果、所謂在地出版とその他出版においての版形の相違が明らかになったが、版形の相違は近世における寺社参詣と出版権に関する認識の指標として理解できるようである。
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