研究概要 |
平成6年度はどちらかというと資料の収集に力を注ぎ,記載されてある北朝士大夫の通婚関係を個別にカードに記入し家毎に整理する作業はまだ完了していないので,結論めいたことはいえないが,これまで行った作業の中で気づいたことを以下のべることとする.先ず第1にいえることは,北朝士大夫の通婚関係が記述されてある資料に記されている対象は北朝士大夫中太行山脈以東の所謂山東士大夫に大きく偏っている点である.特にその点を如実に示しているのが,石封史料中の基誌の出土地が河北・河南省などの山東に集中している事実である.華北が東西に分裂する前の北魏の歴史を叙述した「魏書」に記されている士大夫も東西分裂後に武川鎖出身の鮮卑族とともに一大政治勢力である関隆集団を形成する関隆士大夫を含む太行山脈以西の士大夫,山西士大夫(仮称)より山東士大夫の方に記述が多く割かれている.「魏書」の記述状態は,北魏代政治の中心舞台や中心勢力が山東にあったことを示唆していて極めて興味深い.この点唐代に至って政治の中心舞台や中心勢力が山西(太行山脈以西)に移ったことと野対照を成す.北朝における山西士大夫の通婚関係は現時点でそれを示す資料が少ないが故にそれについて普遍的な結論を直接導き出すことはできないが,資料が数多く伝わる山東士大夫の通婚関係をみると山西士大夫の家とそれは屋西郡の李氏を除いて極めて少ないことから,山西士大夫は山西士大夫の家を主たる通婚対象としていたと考えられる.山東士大夫の通婚関係をみると,山東士大夫の最上層を構成する博陵郡と清河郡の崔氏・箔陽郡の〓氏・趙郡の李氏・〓陽の鄭氏,それに加えて山西士大夫に属する隆西郡の李氏が相当緊密な〓威関係を結んでいたのが認められる.崔・〓・李・鄭4氏とそれ以外の山東士大夫との通婚関係は若干みられるが,崔・〓・李・鄭4氏同士ほど密ではなく,作の4氏が比較的〓〓的な通婚集団を形成していたのが確認される.これは山東士大夫の身分の中で崔・〓・李・鄭4氏とそれ以外の士大夫との間に〓属が存在していたことを反映していると思われる.鮮卑族の元氏は山東士大夫の崔・〓・李・鄭4氏と堅く通婚したが,これは北魏が山西より山東の〓治を重視していたことの表れであろう.崔・〓・李・鄭4氏以外の山東士大夫の通婚関係についてはまだ十分に調べていないので,今後の課題としたい.
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