本研究報告では総計427の北朝の漢族士大夫の通婚例を抽出し、山東(太行山脈以東、292例)と山西(太行山脈以西、関隴地方も含む、135例)に分け整理した。以下、これまで進めてまた作業を通して得た知見を披瀝しよう。 (1)通婚関係を記す史料の記述対象が山西士大夫に比べて山東士大夫に大きく偏っている。そのことは北朝士大夫の通婚状況を考察する上で山西士大夫より山東士大夫の方がより精度の高い結果が得られると考えられる。 (2)山東士大夫の通婚関係に関する記述が山西士大夫のそれより多い史料上の原因は第1に正史の『魏書』の記述対象が山東に傾いていたこと、第2に発掘された北朝の墓誌中、山東士大夫の通婚関係を記したものの方が、山西士大夫のそれより多いことである。 (3)山東士大夫の頂点に位置付けられる清河郡崔氏・范陽郡慮氏・趙郡李氏・榮陽郡鄭氏・博陵郡崔氏は通婚相手の出身地が不明なものを除けば、40〜75%が山東出身者により占められており、山西士大夫より山東士大夫が通婚相手として選ばれたことが明らかとなった。以上の五姓は相互に繁く通婚した上、それを中核として他の山東士大夫と通婚した。 (4)五姓以外の山東士大夫では、鉅鹿郡魏氏、清河郡房氏、平原郡明氏、東清河郡僅氏が五姓と多く通婚していた以外は、五姓以外の山東士大夫が主たる通婚相手であった。 (5)山西士大夫の通婚相手は山東士大夫より山西士大夫の方が多いように思われるが、中でも顕著な例は太原郡郭氏・河東郡裴氏・馮翅郡冠氏・安定郡旱甫氏である。その一方で、山東士大夫と多く通婚した隴西郡李氏のような山西士大夫もみられるが、少数である。
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