尚氏一族の旗地所有を示す『戸部地畝档冊』を分析した結果、乾隆年間に尚氏一族が所有した旗地は、遼東半島の海城県と北京をとりまく順義、東安、通州、交河、楽亭、たく州の6州県に分散していることが明らかとなった。海城県所在の旗地は、康煕20年に尚可喜の遺骸を海城に葬ってここを尚氏の墓所としたことに由来する尚可喜を頂点とする尚氏一族の墳墓と尚氏家廟の維持のために設置された墳地、及び家廟管理のために編成された編成された看墳牛〓に所属する壮丁の旗地で構成されている。一方の順義、東安などの6州県に設置された所謂「畿輔旗地」は、尚氏の元来の拠点であった広東から北京に帰還させられた尚氏とその配下の壮丁を、康煕22年に5牛〓に編成したが、この5牛〓に所属する尚氏一族を頂点とする旗人壮丁の生計維持のために撥給された旗地であることが明らかとなった。彼ら漢軍旗人は乾隆20年代に「改帰民籍」政策によって、旗人から民人に戻されたが、その結果、従来旗人として得た旗地及び旗人身分の間に自力で開発した開墾地の所有権が、個別の壮丁にあるのか、壮丁を支配していた尚氏にあるのかが問題となり、尚氏と旧来の尚氏支配下にあった壮丁の間で土地所有権をめぐる訴訟が頻発している。『戸部地畝档冊』はこの土地所有権をめぐる訴訟記録であり、この中に乾隆年間の旗人の土地所有の状況が具体像が浮かび上がってくる。又、訴訟案件をめぐる証拠としての申し立て文書によって康煕年間の旗地の撥給過程の全貌が明らかとなりつつある。 『戸部地畝档冊』と『尚氏宗譜』を照合して土地訴訟の中に見える尚氏一族の宗族関係を、又、遼寧省档案館所蔵の満文『黒図档』の分布により尚可喜の康煕年間の旗地形成過程を検討中である。
|