本研究の目的は、三藩の乱の平定後に広東から召喚され、海城(遼寧省海城県海城市)と北京に居住した尚可喜一族の状況、および彼等が所有した旗地の様相を中心にして、清朝政権の中で尚氏一族がたどった変遷を通じて、清朝における漢軍旗人の実体を明らかにすることである。 清朝における尚氏一族の歴史はきわめて複雑である。すなわち明の副将から清朝に帰順した尚可喜は、總兵官から智順王、平南王、平南親王の地位にのぼり広東で藩王権力を形成するに至った。しかし三藩の乱が勃発すると尚可喜の長子尚之信が呉三桂軍に投降し尚可喜は乱の最中に病没した.清軍の広東奪回にともない清朝に帰順した尚之信は平南親王位承襲は認められたが、三藩の乱の平定後の清朝の藩王勢力削減政策にともない、尚之信とその兄弟3人が叛乱罪で殺され、一族は内務府の奴僕に落とされた。 残された尚氏一族は、広東から召喚され、皇族の外戚である額附であった尚之隆を中心に尚可喜の18人の子供が〓黄旗漢軍に編入され、北京と尚氏の故郷の海城に安堵された。漢軍旗人となった尚氏一族には北京周辺と海城に旗地が支給され、32家に及ぶ尚氏一族は旗地を経済的な基盤として運営されていく。 以上のように複雑な歴史をたどった尚氏一族は多岐にわたる記録が残されているので、まずこの尚氏一族をめぐる史料の収集と整理が必要である。本稿ではこれまで収集した尚氏一族をめぐる史料を7項目に分類し、各史料の概要と共に尚氏の変遷の一端を論じた。
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