ローマがイタリア半島を征服して、「ローマ世界」を形成した歴史の解明をめざしてまずローマとラティウムの歴史の開始期を研究した。古ラティウムのクロノロジーとして主張されている時期とローマの最古の歴史の関連は次のようになる。IIB期(前830-770年)にローマではフォルムの墓地が止み、エスクィリヌス丘の墓地が始まる。III期(前770-730年)には諸丘とフォルムに小屋が作られる。IVA期(前730-630年)に東方化の時代が始まる。IVB期(前630-570年)は、後期東方化の時代で墓の副葬品は減少するが、日乾しレンガとタイルによる建築が始まる。前625年ころフォルムやコミティウム(民会場)が舗装され、レギア(王宮)が建設される。ここにローマの都市化の第一段階が認められる。ローマと都市化と同時にラティウムにおいてもカステル・デチマ、オステリア・デロ-ザ、ラウィニウム、プラエネステの都市化があった。 最古のラテン語、エトルリア語碑文を検討した結果、ローマの勢力はすでに前7世紀以来広くラティウムに拡大していた他、エトルリア人やギリシア人と活発な接触をもったことが明らかになった。このような最古のローマ像は文献史料からは出てこない。 前8-前5世紀のローマの歴史は、アテナイの歴史に比べてはるかに豊かな文学的な史料が残っているが、それでも史料は断片的で、不確かで、歴史を再構成するには多くの難点がある。この欠陥を補う考古学、言語学、人類学、神話学などの成果は貴重であり、初期のローマとラティウムの歴史の再構成には不可欠である。それらの結果を要約すると、ローマをめぐる周辺のラテン人、エトルリア人、ギリシア人との通商上、文化上の交流は文学的な史料が伝える以上に豊で、緊密であったこと、そしてローマは非常に早くから中部イタリアに大きな勢力をもったことが明らかになった。
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