難波宮跡および難波京域出土の重圏文系軒瓦は、神亀3年(726)の聖武天皇による難波宮の造営時に製作されたものであることが確定できた。 難波宮跡出土の軒丸瓦は、中房に珠文がなく、中房が突出もしないタイプで3重の圏線がめぐるものである。それに対して、平城宮跡をはじめ平城京跡から出土する重圏文系軒瓦は、中房に珠文がある有心の軒丸瓦や中房が突出したものが圧倒的に多い。この傾向から中房に珠文のないものを「難波宮式」、珠文があるものを「平城宮式」と名付ける。 「難波宮式」の分布は、難波宮跡をはじめ難波京推定地域の大阪市域から河内の中・南部地域に多く、山陽道沿いの備後・安芸国にも分布する。伊勢国府を中心とする三重県の重圏文系軒瓦は、中房に珠文がないので一般に「難波宮式」と呼ばれるが、圏線が2重で難波宮跡の出土瓦には存在しないタイプで、むしろ2重圏は平城宮跡で出土している。 さらに、2重圏の軒丸瓦には有心のものがあり、上総国にも分布する。したがって、重圏文軒瓦で3重圏で無心ものを、特に「難波宮式」と称し他と区別する。したがって、平城宮跡出土の重圏文系軒瓦は、奈良時代中期の平城宮還都以後に製作されたされるが、難波宮跡出土の瓦は、難波宮創設期に採用されているので、約20年近く古くに存在していた。 多賀城跡では、整備が整うII期の時代(8世紀中葉)の主要殿舎の瓦が重圏文である。この重圏分の軒丸瓦は、中房が突出したものとそこに珠文があるものとがあり、「平城宮式」と見られる。重圏文系軒瓦の「難波宮式」と「平城宮式」は、根本的な違う種類と考えるにいたった。したがって、単に圏線をめぐらせた文様が一致するからとの理由で、重圏文系軒瓦を様々な課題で一律に分析する方法には問題があることが判明した。 さらに、同じく重圏文系軒瓦で一括してきたが、重圏文軒平瓦が重圏文系軒丸瓦とセットで使用されず、唐草文とセットをなすものがある。また、7世紀後半の重弧文との関連が強く、重圏文系軒瓦と一括できないという新しい課題に到達した。
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