郡衙より下位の官衙遺跡ついては、1976年頃から郷倉や正倉別院についての調査例が現れる。それらを総括すると、別置された正倉も郡衙正倉と基本的に同様のあり方をしているとみることができる。こうした正倉とは別に末端の官衙が本格的に注目されるようになったのは1983年に調査された兵庫県山垣遺跡例などからである。本年度は、そうした官衙関係遺跡の調査報告書の総めくり作業や遺跡現地の踏査を進め、郷段階独自の官衙と考えられている郷衙に関連した遺跡は約110例、その他の国衙・郡衙遺跡以外の「官衙関連遺跡」や「公的遺跡」は約250例にのぼることを確認した。そして、これらの遺跡地名表および文献目録とデータベースを9割ほど完成させ、並行して建築遺構や遺物の基礎的なデータのコンピュータ入力や図面等の整理作業を開始した。 郷衙については、井上尚明や関和彦によって研究が始められ、郡衙より下位に置かれた施設が地方支配において大きな役割を果たしていたことが明らかにされつつある。しかし、これまでの研究には、そうした遺跡が郡衙と並列して置かれた独自の郷衙施設であるのか、郡衙の機能を分掌する出先機関と捉えるべきであるのか、といった大きな問題点が残されていると言える。前掲の山垣遺跡の例では、郡符木簡から郡衙より下位の施設が存在したことをうかがわせるが、一方、他国から氷上郡司に充てたとみられる封緘木簡も出土しており、郡司が頻繁に出向する郡衙出先施設であった可能性も少なくない。また、郷衙や官衙関連施設とされる遺跡の存続時期にはばらつきがあり、恒常的な施設として各郷に画一的に置かれた施設とするには問題がある。こうした点から、郡衙の出先機関の一部が郷の行政をも分担していた状況や、必要に応じて臨時に設置される官衙補完施設の存在を念頭においた分析が必要であろう。
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