国衙・郡衙以外の「官衙的」遺跡、すなわち、郷(里)関連や「公的」性格を持つ遺跡などと性格づけられている遺跡は200例を超えていることが判明し、その文献目録を作成した。これらの遺跡は、建物の規模や配置、集落の住居群との位置関係、存続時期などに着目すると、A.官舎独立型(工房を含む)、B.郡衙正倉別院型、C.集落付随型、D.集落内包型、E.豪族居宅付随型、F.豪族居宅型、に分類できる。このうち、A・B型以外には、存続期間が短期で、建築構造や空間的構造が極めて多様であり、しかも大きく変化する傾向が認められる。すなわち、これらは、永続的な官衙施設として造営・維持された郡衙やその別院などとは異なり、分掌する職務内容や在地の政治経済的状況や地形条件に応じ、適宜、設置・移転・廃止された、あるいは二次的に官衙的な機能を帯びた補完的な性格の強い広義の官衙であったと捉えるべきであろう。また、D・F型は、家政機関などと未分化であり、官衙の範疇からは除外すべきであろう。しかし、国郡衙の支配は、こうした本来の官衙を補完する施設や居宅などを介して末端にまで及んでいたのである。 ところで、郷段階の官衙に関しては、郷長以外に正規の官僚制的機構が認められないことや、郡司による里正の直接的掌握が伺えることなどを考慮すると、国郡衙から相対的自律をもった郷の官衙が設けられた可能性は少ない。郷雑任や郷長らの活動の拠点は、本来的には、郡司の直接的な管轄下に置かれたA・B型のような郡衙出先施設やC・E型のような補完的な施設であったとみられる。しかし、郷倉の設置、出挙運用の重視、郡郷雑任の増加などから伺えるように、郡衙出先施設や補完的官衙施設の役割が9世紀以降に増大したとみられ、郡衙機能の低下の一方、それらが自律的な郷の官衙としての性格を帯びるようになった可能性も考慮すべきであろう。
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