非ユダヤ系アメリカ作家のユダヤ人観は、現在もなお「神話的ユダヤ人」と「隣人としてのユダヤ人」の間を揺れ動いており、その揺れ動き、即ち彼らがユダヤ人にたいして懐き続けてきた相互矛盾的、愛憎併存的態度を歴史的に辿ることが、「ユダヤ人像」研究の課題となる。この観点から、ロングフェロウ、ホイッティアー、ホームズら19世紀詩人からホ-ソーンを経て、ヘンリー・アダムズ、ヘンリー・ジェイムズ、マーク・トウェイン、ウィラ・キャザ-ら20世紀初期の作家まで関連作品の分析を試みた。研究期間中に発表した2編の論文を検討しつつ、新たに得られた知見を数点のみ以下に列記する。 (1)ロングフェロウとホイッティアーがユダヤ人に示した理解と寛容は印象的だが、それぞれキリスト教徒として、ユダヤ性の捉え方にバイアスを生じていた。たとえば同時代のユダヤ人に関心を懐かず、ユダヤ教経典の解釈にキリスト教的情念を注ぎ込んでいた。 (2)ホ-ソーンの滞英日記中に激烈なユダヤ人憎悪が噴出しており、その憎悪が後期の小説『大理石の牧神』に反映している。この作品のなかで彼は「彷徨えるユダヤ人」伝説に依拠しつつ、そのシニカルな悪の権化としての側面のみを表象した。 (3)ヘンリー・アダムズは、劣等異民族による社会中枢の崩壊という危機意識に駆られ、産業経営者と金融資本家の悪弊を一切ユダヤ人に仮託して、終生反ユダヤを貫いた。名門アダムズ家に生まれながら国政に参与し得なかった疎外感、そしてカトリック教を基軸とした「文化的統一性」の理想を台無しにされた絶望感が、その根底をなしている。 (4)反ユダヤ性が熾烈なペアとして、ヘンリー・アダムズとエズラ・パウンドが並ぶとしたら、反ユダヤ的な敬遠や軽蔑が創作上の必要からなのか、それとも固定観念の表出なのか定かでないペアとして、ヘンリー・ジェイムズとT.S.エリオットを並べ得る。 (5)上記の諸文人、そしてマーク・トウェインとウィラ・キャザ-の反ユダヤ的表現を考察しながら終始筆者がつきまとわれていたのは、各者の反ユダヤ性のどこまでが個人的で、どこからが集団的なのか、という難問である。画然たる識別は所詮無理と思われるが、今後の宿題として探索を続けたい。
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