本年度の研究成果は、以下の二つである。まず第一に、本研究の全体的見取り図を描くために<可能性感覚>の現代的意義についての予備的考察を行い、その成果を『ム-ジル-思惟する感覚』所収の論文「可能性感覚の射程」にまとめた。この論文では、<可能性感覚>の主要な契機として偶然性の認識・多元主義への傾斜・ユートピア的思惟の三要素を抽出し、そのうちの前二者が人工生命や現代宇宙論と共通する思惟形式であることを指摘することによって、<可能性感覚>の現代的位相を明らかにした。さらにまた<可能性感覚>のはたらきを『特性のない男』に即して分析することによって、その実験的・反相対主義的性格がポストモダンと呼ばれる現代的状況のなかでなおもユートピア的思惟の可能性を提示しうるものであることを指摘した。この二つの新たな知見は最終年度に予定している研究の礎石となるものである。第二に、宗教心理学者ギルゲンゾーンの著作がム-ジルに与えた影響を考察し、その成果の一部を論文「神秘主義の心理学(一)」まとめた。この論文は、ム-ジルの<可能性感覚>に影響を与えた同時代の思想家、作家、研究者との比較研究の一環としてブーバーにも触れつつ、ム-ジルの「境界体験」の成立に関与したギルゲンゾーンの意義を再発掘することによって、<可能性感覚>の着想に果たした心理学の役割の大きさを示唆するものである。次年度はこの知見をもとに、A・マイノングの対象論との関係にまで視野を広げて考察を進める予定である。なお、本年度は本研究の第二段階に相当する<可能性感覚>の現代的意義についての予備的考察から研究を開始したため、三年計画の研究全体を有機的連関を保って遂行するには、購入した図書を常時手元に置いて参照する必要が生じた。その結果、当初設備備品費として予定していた図書費のかなりの部分を消耗品費として使用せざるをえなくなったことを付記する。
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