本年度の研究成果としてまず第一に挙げられるのは、A.マイノングとの比較研究である。これまでマイノングについては、若きム-ジルをグラーツ大学に招聘しようとした哲学者かつ心理学者としてエピソード的に語られるのが常であり、その理論である対象論がム-ジルとの関係で詳しく論じられることはなかった。しかし『対象論について』をはじめとするマイノングの対象論関係論文を検討した結果、「現実的なものを優遇する偏見」から脱却して「存在しない対象」の存在を主張する対象論のなかに、ム-ジルの<可能性感覚>の基底にある「存在することも可能であろうすべてのものを考え、存在するものを存在しないものよりも重要視しない能力」と通底する思考のかたちを見いだすことができた。マイノングを<可能性感覚>の先駆者として位置付けることを可能にするこの新たな知見をまとめたのが、論文「ム-ジルとマイノング」である。この論文は、同時代の思想家・作家・研究者との比較研究の一環であると同時に、<可能性感覚>の前史研究にむけて第一歩を踏み出すものともなる。第二に挙げられるのは、E・カネッティとの比較研究である。これは本来、ム-ジル以後の世代における<可能性感覚>の系譜探求のひとつとして来年度の後期に予定していた課題であるが、学会誌『ドイツ文学』の特集「辺境のドイツ語文学」(仮題)への寄稿を求められたため、予定を繰り上げて取り組むことにした。現在まだ執筆中のため知見と称するのは憚られるが、たとえば、ム-ジルの系列に連なる者であることを自認し、<変身>をキーワードに可能性思考を駆使するカネッティの言語表現のなかに、概念にとどまらぬ圧倒的な肉体性が認められることなど、「辺境」という与えられたテーマのなかでカネッティとム-ジルを比較することによって<可能性感覚>の系譜に予想外の光を当てることができそうである。
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