本年度の研究成果としてまず第一に挙げられるのは、E・カネッティとの比較研究である。カネッティの『人間の地方』には通常のアフォリズム概念を越える数多くの異世界断章が含まれているが、その根底には、現にあるものとは別様の存在可能性を追求する強烈な意志が潜んでいる。歴史をめぐる省察においても、歴史の現在に別様でありえた見えない歴史の姿を想い、現実のただなかに別の現実の萌芽を読み取ろうとする姿勢が認められる。そこには≪可能性感覚≫の精神史的系譜に連なるひとつの精神が見て取れるが、この精神は、≪可能性感覚≫のたんなる継承者であるにとどまらず、≪越境する精神≫として、圧倒的な肉体性をともないつつ別の現実へと分け入っていく。以上の知見を「辺境」のテーマとの関連でまとめたのが、論文「越境する精神、あるいはカネツッティの≪可能性感覚≫」である。第二に挙げられるのは、ライブニッツからルームジにいたる≪可能性感覚≫の系譜の探求である。これは現時点てまだ執筆中であるが、A・O・ラヴジョイの観念史研究を導きの糸として、「偶然」の認識をめぐるひとつの精神史を辿る試みである。ライブニッツからラント、ヘーゲルにいたるまで、その目的論的思考において偶然は、位置づけ困難な障害物であった。ヴィトゲンシュタインにおいてもやはり偶然は、世界における価値の存在を拒むものとして立ちあらわれてくる。偶然を豊穣な可能性を切り開く契機として肯定的にとらえることのうちに、≪可能性感覚≫の独自な視点を見ることができる。この視点は、世界を偶然に創造されたものとして、したがって別様でもありうるものとして理解することから出発するル-マンのシステム理論においても基本的に共有されているが、残念ながらこのル-マンとの比較研究はまだ論文としてまとめるにいたっていない。ハ-バーマスとの論争も視野に入れつつ、早急に着手する予定である。
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