近年の印欧語研究における最も重要な成果のひとつは、アナトリア諸語(ヒッタイト語、パラ-語、楔形文字ルウィ語、象形文字リウィ語、リュキア語など)で記録された文献資料の追加である。これによって、真の意味でのアナトリア比較研究の推進が可能になった。本年度の研究では、このような資料面での進展を背景として、印欧祖語の*dと*dhがアナトリア祖語の段階でまだ保持されていたことを示そうとした。この見方を裏付ける根拠は、印欧祖語の*iの前の*dと*dhがアナトリア諸語で異なる対応を示すという事実に求められる。2次的な形態的影響を受けた可能性がある形式を除外するなら、印欧祖語の*diはヒッタイト語の-za、パラ-語の-ti、楔形文字ルウィ語の-ti、象形文字ルウィ語の-ti、-ri、リュキア語の-diに対応するのに対して、印欧祖語の*-dhiはヒッタイト語において-ti、-tで現われる。つまり、印欧祖語の*dがヒッタイト語において*iの前で破擦音化を蒙っているのに対して、*dhは破擦音として現われていない。この2種類の対応は、印欧祖語に想定される*dhと*dがアナトリア祖語の時期にまだ融合していなかったと考えることによって、最も自然に説明することができる。また、ヒッタイト語のzという文字は無声の[ts]だけではなく、対応する[dz]を表わすのにも用いられていたように考えられる。
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