明治初期の騒擾事件裁判において、主謀者の処刑が即決処分にもとづき、地方官に一任して行われることが許されたのは、明治4年の廃藩置県の際に旧知事惜別を名目とした一揆が起きた場合と、宝貨偽造によって社会経済を混乱させる事件が発生した場合とに限られていた。ところがその後、どうした理由からか大蔵省が各地の騒擾に際して即決処分指令をだし、本来の主管である司法省とは関わりなく、主謀者の処刑が行われた裁判事例が間々見られた。何故こうした裁判が起きえたのか、その原由をつきとめることがこの研究の主要テーマであるが、7年度は当初計画に沿って、明治5-6年の所謂留守政府時代に各地で起こった事件とその裁判の真相を解明すべく試みた。史料の採集は法務図書館、国立公文書館はもとより、岩手・高知(以上5年)、青森、敦賀・鳥取(以上6年)等幅広く行った。なお兵庫(神戸地検)、長野・愛知(以上3〜4年)も昨年度の補足として渉猟した。いずれも新たな知見を見出す新史料がかなり多く見つかった。これらについての研究の深化は早急に行いたいが、当該年度は、上記のうち、(1)即決処分指令の発令の主体が廃藩置県がらみの正院から大蔵省へと変わっていく節目の時期に位置する高知県の騒動についてと、(2)敦賀県騒擾で大蔵省の即決指令により処刑が行われた直後、司法省の抗議で両省が紛糾する最中に勃発した6年の鳥取県騒擾で、どのような事件処理が行われたか、この二件について個別具体的に究明した。また、これ迄の4年愛知三河大浜の一揆、5年新潟県大河津分水騒動、6年敦賀県騒擾の三件(全6章と付章2)を一書にまとめ、世に問うた。しかし未だこの研究は緒についたばかりであり、将来、本格的研究を成し遂げるためにも一層励みたいと考える。
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