研究概要 |
本研究課題のもとで、研究計画に沿って調査・研究を進め以下のような成果をえた。 (1)民蔵合併期における暴動事件では、三年と四年の長野、松代藩騒動及び三河大浜の宗教一揆ではその司法的処理が刑部-司法省系列の司法官員ではなく、民部-大蔵省系列に属する官員により指揮されている。また廃藩置県時の藩主(知藩事)引留騒動としてあげられる四年の高知、高松、松山、大州、岡山、広島、福山の各県では、いずれも正院の即決処分指令にもとずき処刑が実施されている。これには各県の取調調書(伺)。司法省の処刑指令だけでなく、現在所蔵されていることが判明した各地方検察庁、裁判所文書の刑の執行と示す判決文書によっても確認できた(但し、広島、岡山は残存せず)。四年の生野県、飾磨県騒動は、廃藩置県に係るものではないが、政府はこれを類似の事件と見做し、即決処分を許可し、処刑はこれにもとずき執行された。 (2)留守政府期においては、六年敦賀県騒擾の時に大蔵省から出された即決処分指令により、事件の処理が行われ、しかもその裁判を指揮するために同省から3名の官員が派遣されている。(このうちの2名は後に裁判所判事に立身している)これ以前の山梨、大分の騒擾でも同様のことが行われている。司法権の行使をめぐり司法省は大蔵省の行為を糾弾、政府は内実司法省の主張を妥当とするも、留守政府は大蔵省を批難するほど強力ではなく、結果的に大蔵省の行為を容認する。これにより司法省が推進してきた近代的司法制度構築のもくろみは後退を余儀なくされた。しかし何故に大蔵省が刑事事件の司法的処理の場に現れ、つよく干渉できたのかについてはその原因を2,3提案できたが、確固たることは後考にゆだねざるをえなかった。 (3)士族反乱期においては茨木及び三重の一揆を取り上げたが、いずれの司法的処理過程においても司法制度的には未だ不備な点があることを指摘できたが、大蔵省の後をうけた内務省の司法的判断の基準といったものについては判然としない問題が残った。
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