研究概要 |
1.「1851年1月7日付エンゲルス宛の手紙」でマルクスはリカードウ差額地代論を克服する端緒を得た。リカードウ地代論を3命題に定式化し、それらに反する地代や殻価の現実に動向を対置、理論化したからである。本研究により、(1)マルクスはこのような現実の動向を、「エコノミスト」誌1850年12月14日号に掲載された読者の手紙から得、「ロンドン・ノート」で抜粋していること、(2)このマルクスの手紙で、事実上、蓄積にともなう可変資本の価値低下を論じる基礎が初めて設けられ、その後の、もっぱら固定資本の価値・素材補填期間をもって恐慌の周期を規定するに至る立論のための起点とも把握されるべきであること、が分った。 2.「1857年12月8日付エンゲルス宛の手紙」の追伸で、マルクスは従来のはずれた「恐慌予言」に言及した。本研究により、(1)この言及は、「エコノミスト」誌1857年12月5日号における記事「最近の逼迫のより深い諸原因」を念頭に置いたものであること、(2)同記事では、マルクスが恐慌を予言したのとほぼ同じ諸時期をやはり危機的な時期とし、これらの「厳しい試練を」「新しい金の持続的な到来が、この国〔イギリス〕およびフランスそしてヨーロッパをして……先例を越えるばかりか予期をもはるかに越えるほどの成功をもって、切り抜けさせた」と記していること、が分った。 3.マルクスは「経済学批判」「予言」(1859年)のなかで、社会構造を土台・上部構造Basis,Uberbauという建物の比喩を用いて説明した。本研究により、(1)1840年代末から50年代中の「エコノミスト」誌には現実資本と信用制度との関係をそうした比喩foundation,superstructureで描いている場合のあること、(2)マルクスがそれらをBasis,Uberbauと独訳していること、が分った。
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