本研究の目的は、戦前における日英合弁兵器鉄鋼会社・日本製鋼所の発展過程を対象とし、とくに英国側株主(ウィッカーズ社及びアームストロング社)との関係に考慮を払いながら、同社の複雑な経営戦略を解明することにある。 本年度は、昨年度の日本製鋼所「創立期」(1907〜10年)のトップマネジメントについての研究に引き続き、山内万寿治海軍中将の会長時代(1910〜13年)における英国側株主のトッップマネジメントへの関わりの内容を解明するための作業を続け、その成果を大学の紀要に発表した(「11.研究発表」欄記載)。結論的な内容は以下の通りである。 山内会長は、日本側株主(北海道炭砿汽船会社)と英国側株主の利害を調整すべく「中立取締役」として選出されており、当時日本製鋼所が直面した重要課題においてその調整的役割が期待されたものの、必ずしも両者の関係調整には十分成功したとは言えなかった。 例えば、固定資産の「減価償却問題」等をめぐっては、重役会内部で日本側重役と英国側重役(「代理人」)との間の激しい対立関係が生じ、審議の過程でそうした対立関係を調整しきることができずに表決に持ち込まれざるを得なかったこと、「総代理店問題」の取組みの過程で、日本国内における英国側両社の競争関係について山内会長が再三競争回避を要請していたこと、室蘭工場の組織再編をめぐってもF.B.T.Trevelyanらの英国側派遣技術者との関係は必ずしも良好とは言えなかったことなどである。 そして、1913年には同年1月の北炭再建過程で支配権を確立した三井財閥が日本製鋼所に対しても影響力を強化し、経営支配権を行使しつつあり、山内会長は、そうした中で任期満了を理由に退任した(同年11月)。2ヶ月間の臨時的措置を経て1914年1月には日本側重役の総入替えと英国側重役1名の交替による新体制が敷かれたが、以後第1次大戦期にかけては英国側株主の日本製鋼所経営への関与が後退していくことを展望的に示した。
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