「高山寺明恵上人行状」を精読し、そこに記載されている寛喜三年造作の「臨終の道場」が仁和寺所蔵「梅尾禅堂院御庵室差図」に描かれた庵室であることを明らかにした。そして、「高山寺明恵上人行状」および「高山寺縁起」の記事から、差図に見られる「土室」の書き込みが従来の説のように庵室全体が土間であることを意味するのではなく、書き込み左上部の囲いを指しており、それが字義通り「つちむろ」を意味することを明らかにした。この「つちむろ」こそが明恵入滅の場所であり、そのように考えれば「高山寺明恵上人行状」にみられる入滅前後に行なわれた諸々の儀礼を矛盾なく解釈できることを示した。ただ、このように考えれば差図下部にみられる「東面」の書き入れは庵室の北にあることになる。しかし、「五聖ニ対シ奉リテ東方ニムカヘル事、年来修練ノ禅観ノ方軌并ニ瑜伽行法ニツキテ、聊カ相応ノ深意アルヘキ歟」とあるように五聖ノ曼茶羅に向って東面(南ヲ枕トシテ右脇臥)することは特別の意味を持つことであり、差図にみられる「東面」の書き入れはこの庵室での禅観あるいは瑜伽行法にとって最も重要な方位、より事物的に言えば「土室」の向き、入滅に際して右脇臥する明恵の正面する方位を指すと考えられることを示した。 以上のような文献による研究とともに実測調査を行なった。明恵が学問、修行のために営んだ多くの建築物のうち、今回は高山寺庵室群の中核をなす羅婆坊跡と花宮殿跡を実測した。
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