橋本関雪・竹内栖鳳の庭園については下記の通りの成果を得た。また、横山大観、神坂雪佳に関しては、既収集末整理資料の整理及びワープロ入力を行い、今後の研究の基盤を整えた。 橋本関雪:閉鎖登記簿謄本による白沙村荘(京都市)、蟹紅鱈白荘(明石市)、走井居(大津市)、冬花庵(宝塚市)の土地入手経過調査、現地調査による庭園デザイン調査、「家」(『関雪随筆』所載)などの著述や〈春龍出蟄図〉〈池亭看魚図〉などの絵画作品の検討・分析から、以下のことがらを明らかにした。(1)大正2-3年の蟹紅鱈白荘に始まり、晩年の冬花庵に至るまで、関雪は絶え間なく建築や作庭に関わっていること(2)建築や作庭を画作と同様の創作と公言しており、それらがいわば関雪の生涯の目的であったともみなせること(3)白沙村荘の作庭に携わった庭師は、青木某・本田安太郎等でデザインは関雪の指示に依ったこと(4)関雪の庭園は、歴史性を重んじる教養主義や中国の文人に対する傾倒がうかがえるものの、基本的には近代の写実的風景庭園の系譜上にのるものであること。15EA03:竹内栖鳳:閉鎖登記簿謄本による霞中庵の土地入手経過調査や、庭園の現地調査、「涼台小話」などの著述や〈保津川図〉などの絵画作品の検討・分析から以下のことがらを明らかにした。(1)霞中庵庭園の築造は従来言われていた大正元年頃ではなく、大正3-4年頃の可能性が高いこと(2)庭園のデザインは、建築同様、栖鳳によるものであるが、施工に携わった庭師は、本井政五郎(芦花浅水荘庭園の施工に従事した庭師)の可能性があること(3)霞中庵庭園は、芝生の広がり、カエデの樹林、流れなどから構成されている。その明るさ・軽快さは、近代の写実的風景庭園の特色を顕著に示すとともに、四条派の流れを汲みつつヨーロッパの風景画の成果も取り入れた栖鳳の画業に一脈通じるところを見いだせるものである。
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