本研究では、過疎化および少子化が進行する四国の漁師町で、子どもを持つこと(子どもを産み育てること)に関する意識がどのように変化したのかについて究明することを目的としている。中山は予備調査をへて、1994年秋以来、1996年3月現在まで、四国のB漁師町で断続的にフィールドワークをしている。 本年の主なテーマは、B町の子どもを持つことの実態と意識の変化を、(1)第2次大戦前・戦中、(2)第2次大戦後-前半、(3)同-後半の3つの時代に分け、ライフヒストリー、聞き取り調査、参与観察資料を通じて比較・分析した。 その結果、(1)の時期は国家的な「産めよ殖やせよ」のスローガンがB町にも伝えられていた。同地区の敷地規模は平均12坪程の狭さであるが、子どもの数は非常に多く、また3世代同居が普通で、平均10人程が一軒に暮らしていた。女性たちは「家族計画」という発想はなく「避妊」の方法をほとんど知らず、自宅で産婆の介助のもとにお産をしていた。さらに「漁師という職業を継承するために男児を産むこと」が期待され喜ばれた。(2)の時期は、子どもの数がじょじょに減少傾向をたどる。男児の出産が期待されることは前の時代と変わらない。B町では「他人の飯を食ってくること」が重視されるため、男女児ともに、学業を終えて一端外に働きにでるという特徴があり、男児は結婚年齢まで遠洋漁業の船にのり、女児も結婚年齢まで京阪神地区に働きに出た。これは子沢山で狭い家屋での生活における口減らしの意味もあった。この時代に一端京阪神に出ていった女児は、段々と結婚年齢期にB町に帰らず、従って漁師の嫁になる女性は減少していった。(3)の時期になると、「言説」としては男児出産が重視されるが、妻たちの間に「男児を産まねばならないという意識」は希薄化しはじめる。また夫婦がともに我が子に学歴や資格取得を期待するようになり、親の職業-特に漁師-を継承することへの期待は減っていく。 なお本年は2年間の研究成果として、B町の複合構造とその歴史的変容の中で、子どもを持つことの意味が明確に変容していく事実を、実証的にまとめている。
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