研究概要 |
蘭学者宇田川槐園(宝暦5年12月27日=1756年1月28日~寛政9年12月18日=1798年2月3日)の著『西説内科撰要』(わが国最初の西洋内科の書)の解析を中心にすえ,槐園が,原著のゴルテル著の蘭書をどのように理解し,訳述していったかを,槐園の遺した多数の稿本類との比較において検討した。 その結果は,槐園の稿本の主要なものは『西説内科撰要』訳述のためのノートであると判断した。一見,それと無関係に見える初期の『薬品曾記』や『蘭畝俶載』中のリュクトポンプの実験記なども,この文脈で見ていくと理解しやすい。つまり,槐園は,ゴルテルの内科書を訳すことを自分の仕事の中心にすえ,それを行うには,一方では語学の学習が必要であるが,他方では,西洋の内科学・薬学さらに生物学・物理学・化学など,西洋医学の基礎になっているものの,学習,そして,それも単に文字の上のことだけでなく,「実験科学」として学ぶ必要のあることを認識していたと私は判断する。このような思想・方法は,すでに杉田玄白らの『解体新書』記述の仕事に見られるが,『西説内科撰要』記述の仕事は,明確に,自然科学への道を一歩以上進めている。なお,この調査・研究の過程で,不可思議な本に出会った。それは、文化7年大坂書林刊の,宇田川玄随著槐園蔵坂『因果物語』である。その内容は,鈴木正三編著の同名の寛文1年頃刊の本と同じで,仏教説話である。なぜ玄随著かさらに調査中である。
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