宇田川槐園は、江戸時代の医家・医学者鍛冶橋宇田川家五世玄隨のことであり、幼名を〓(晋)と言い鍜冶橋宇田川家三世玄隨の子として宝暦五年十二月二十七日(太陽暦1756年1月28日)江戸(鍜冶橋にあった津山藩邸)で生まれた。幼くして実の両親を失い、三世玄隨の末弟玄叔(四世を嗣いだ)の養子となり、成長して五世玄隨となった。 槐園は、最初は玄叔に従って漢方医学を学んだ。四世玄叔は、蘭方を嫌い、〓がこれを学ぶことを許さなかったが、五世玄隨は、桂川甫周(国瑞)の影響で、蘭方医学の道に入り、以後、鍜冶橋宇田川家は蘭方医として、すぐれた仕事を、代々行うことになる。槐園は、J.ゴルテルの内科書を訳述して、日本最初の西洋内科の本『西説内科撰要』(18巻)を書き上げ、その出版(1793~1810)の途中で逝った(1798年2月3日)。その後は、この仕事は、六世玄真次いで七世榕菴によって継がれ、玄真はとくに西洋薬学について、榕菴は、さらにその基礎の西洋の植物学(動物学)、化学について、体系的な日本語の本を出版した。これは、わが国の自然科学の基礎を築く仕事となった。 本研究では、五世宇田川玄隨(槐園)の人と仕事の全体を明らかにすることを目指し、宇田川槐園の書き残した稿本のすべてにあたることを心がけ、彼が何を、どのように学び、人生をどのように生きたかを探ろうとした。また関連して、当時の蘭学社中の人びとが、どのような仕事をしたか、槐園とどうかかわったかを調べ、また、宇田川家の先祖についても調べた。少し以前のことになるが、槐園の墓移転に関し、遺骨にも対面した。 槐園の書き残した稿本で、現存するものについては、80%くらいはあたることが出来た。結論を述べるならば、槐園は、まじめな医師として漢方医学から入り、薬である本草学を手掛りに西洋薬学・医学・化学・物理学にも歩を進めた。研究の主な柱は『西説内科撰要』の訳述であり、それを深める仕事は、玄真・榕菴が実現した。
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