本年は主として、下記の2点を対象とし検討した。まず、日本の蘭学の原点とでも言うべき『解体新書』(1774年刊)のオランダ語版およびドイツ語版原著とその原著者たちを調査した。オランダ語版原著はライデンのヘリット・デイクテン(1696頃-1770)により1734年に刊行され、ドイツ語版原著はダンチッヒ(現、ポーランドのグダンスク)のヨハン・アダム・クルムス(1689-1745)により1732年に刊行された。このデイクテンとクルムスの未知の1次史料多数を現地の公文書館より取寄せ、分析した。デイクテンはライデンの外科医のギルドの要職を歴任した人物で、『解体新書』のオランダ語版原著は、ギルドに属した職人であった外科医のためのハンドブックであった。クルムスは内科医であり、ダンチッヒにあった学術的ギムナジウムの教授で、『解体新書』のドイツ語版原著は、大学教養部の水準に匹敵する学生のための教科書、職人外科医のためのハンドブックであった。 次に、日本の蘭学史上最多種の著書が日本に受容されたウイーンのヨセフ・ヤコブ・フォン・プレンク(1739-1807)の履歴と著書について、ウイーンとブダペストにおいて以前入手した史料をもとに調査した。ウイーン陸軍軍医学校の教官プレンクは多作家で、石田が把握しただけでもラテン語版29種68版、ドイツ語版31種81版、オランダ語版15種29版、日本語翻訳37種(刊本12種、写本25種)の著書があった。これらの各国版の内容と相互関係を検討した。日本が受容したプレンクの著書は、18世紀後半のウイーン陸軍軍医学校の教科書で、また外科医の利用した本であった。 日本の受容した蘭学を代表する原著者、クルムス、デイクテン、プレンク3名の履歴と業績を検討すると、日本の受容した蘭学は、オランダ、ヨーロッパにおける外科医のための知識や技術であったと要約しても良いだろう。
|