本研究では、比較的遺品に恵まれた絵画資料(絵巻・肖像画・屏風等)を援用して鎌倉時代初期から桃山時代末期までの“描かれた服飾"を収集・抽出・分類し、実物資料との比較を行いながら、衣服の文様および意匠の変遷を考察した。その結果、平安時代までに確立された色彩を中核とする高度な装飾の体系から、近世の町人階級を主たる受容層として展開した文様中心主義の装飾体系へ移行する過程において、武家服飾がきわめて大きな役割を果たしたことを確認した。すなわち、武家服飾においては、下位の服飾が上位の服飾にとってかわる「形式昇格」とよばれる変化が著しく、公家の服飾からお仕着せの狩衣から、水干、直垂へと、行動に適した武家独自の服飾をその中心に据えるべく変遷していった。直垂は、室町期の中心的服飾として隆盛したが、その内部に形式昇格を生じ、大紋、素襖を生じせしめ、ついには肩衣袴の形式に至る。このような形式昇格の過程で、衣服は前代の装飾様式を継承し、しかるべき地位を得る。と同時に、中心的服飾としての格式を確立するために長大化の道を辿る。その結果、実用性との不均衡を生じ、次第に非実用的な衣服となって、次ぎなる形式昇格の契機となる。以上のような、武家服飾を中心に展開した形式昇格の特質を考察した結果、近世の小袖における文様主導の意匠様式が登場する理由について新しい解釈を提示するに至った。小袖は衣服としてもっとも下着に近い存在であり、衣服のヒエラルヒ-の最下位にあったため、これ以上の形式昇格は起こり得なかった。しかし、一度、服飾の中心に進出した以上、その格式を維持するための装置が不可欠であった。そこで、文様によって衣服の格式を維持する様式が生じ、近世を通じて原則的に不変であった小袖のうえに文様中心主義ともいうべき装飾様式が展開されたのである。
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