加害者と被害者を対極に位置づける近代刑法の犯罪観は、いまや曲がり角にきている。現行の刑法は、加害者と被害者の立場を明確にすることを要求してきたが、現代の犯罪を引き起こす社会的状況は、加害者と被害者に共有化されてきている。このような状況の中で、加害者と被害者の境界はだんだんと不明確になりつつある。 わが国の小中学校における昨今のいじめ問題は、この状況を象徴としている。そこでは、加害者と被害者の関係が非常に流動的である。両者の立場が容易に逆転しやすいというだけでなく、その境界線自体が曖昧で、時と場合に応じて微妙に揺れ動く。極端な場合には、特定の加害者がまったく存在しないまま、被害だけが一方的に生産されていくケースも見受けられた。まさに、生徒たちに共有された状況そのものが犯罪を生み出しているといえよう。この現実は、事件を扱う従来の法レトリックに対して変更を迫るものである。 ところが、現行の刑法や少年法は、このような現実の変化に対応できないで苦慮している。それは、近代法が、自律的存在としての個人を前提とした体系だからである。この限りにおいて、現実は、近代刑法における犯罪の法的概念を超えてしまっている。個人の自律性を前提とする二項対立的な図式においては、特定の被害者が存在するためには、特定の加害者がかならず同時に存在していなければならない。人びとを包みこむ集団自体が問題をはらんでいるという発想はそこにはない。現時点において、いじめの被害が法の対象となりにくのは、このためである。 共有された状況をが犯罪を生産するのだとすれば、特定の加害者をいくら矯正したところで、病根を残したままの対症療法にしかすぎないであろう。従来の「加害者の被害者化」は、この文脈において語られてきた。近代刑法の対象はあくまで人格だからである。しかし、加害者という特定個人に犯罪責任を限定できないという現実は、人格がけっして所与のものではありえないことを暴き出してもいる。かくして、現在の犯罪に対する本研究の分析は、デュルケム犯罪論の有効性を再認識させることとなった。近代刑法にかぎらず、自律的存在としての個人という近代の仮構は、さまざまな側面でいま綻びを見せはじめているのではないか。本研究は、犯罪という社会現象の解釈をとおして、少なくともその一端を示すものである。
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