本研究の目的は、十七世紀半ばのイングランドを対象としつつ、主権論とローマ国制論交錯という観点から、内乱の時代の政治学の歴史を見直すための足がかりをつかむことにおかれていた。核思想家の宗教内乱への対応を、主権論の性格と、ローマ国制論に対する態度という観点から分析しようとしたのである。 今回、特に力を注いで分析したのは、1650年代後半に活躍した、イングランドのマシュウ・レン(Matthew Wren)であった。レンは、ホッブズの後継者を自認して主権論を展開しており、ハリントンの共和政論を厳しく批判した人物として知られてきた。今回の分析の結果、その批判は、レンがそもそも「王政」と「共和政」の区別に、「主権論」という理念と、「ローマ国制」という歴史的経験とを対応されていたことに基づくことが判明した。つまりレンにあって、政治学史の歴史は、「共和政」に対する「王政」の勝利・優越という一本の図式で描かれていたのである。よってレンの頭の中では「主権論」と「ローマ国制論」は接点を持たない。これに対し、ハリントンの場合は、政治学史は、古代ギリシャ・ローマに由来する伝統と、ヨーロッパ封建制の伝統との二本の流れからなっていた。そうであればこそ、「ローマ国制」を論じることは、政治学の伝統の一方を回復することであり、ひいては「主権論」を正しく論じることであった。 よってこの場合、題目に掲げた「緊張関係」がいかなるものであるかは、実際、各思想家それぞれの「政治学史」の構図が決定的な役割を果たしていることになる。つまり、今回の最大の収穫は、分析にあたってまずその思想家を「政治学史家」としてみるという視点の大切さである。今回収集した文献等によりつつ、引き続きこの研究を進めるにあたっても、ここで得た視点を有効に活かしたいと考える。
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