今年度は東西絵画の交流として、とくに小田原北条氏に仕えた「小田原狩野派」について主に考察した。彼らは当時、中央画壇を席捲した狩野派の元信様式を習得し、東国の画壇に持ち込んだ人々である。実作品が残るのは、前島宗裕、官南、狩野玉楽がおり、それ以外に石樵昌安という画人が信濃・甲斐に、鹿野弥次郎が信濃、式部輝忠が甲斐、箱根、鎌倉、駿河に作品を残しており、小田原に限らず、東国という広いエリアで活動していることがわかった。 この六人はいずれも元信様式を踏襲しているが、作風から、元信の直弟子、もしくはその様式の正系を受け継いだのが狩野玉楽、前島宗裕、式部輝忠と考えられ、彼らが京都で修行したことは確かである。さてこれら東国に導入された元信様式が、当地にいかなる影響を与えたかという問題である。狩野派の作画理念の根幹をなしたものは、元信の創成した三様の画体であったが、これを良く齟嚼しえたのは式部輝忠である。彼のセット物の扇面群には、明かにこの画体によって描き分けたものがある。また巌樹遊猿図屏風(京都国立博物館)は元信の行体画法によく立脚しており、東国画人が中央の元信様式の習得の上になしえた代表作といえよう。 このような描法的理念以外に表面的な図様の影響関係もある。一例として、前島宗裕の山水図と祥啓派の画人啓孫の山水図がほぼ同じ図様をとっていることが挙げられる。ただし両図の根幹をなす宋元院体画の図様が、すべて元信系画人のみの手によって東国に導入されたと考えることもできない。というのは、同じく前時代に京都で画技を習得した祥啓が伝えた図様が、この時期まで伝えられていたことも考えられる。従って図様が共通することのみをもって、中央の狩野派の影響と即断することもできないが、啓孫作については宗裕の筆癖まで見られることから、宗裕作に啓孫が影響を受けたと判断できる。ただし上部の山岳は祥啓画風によっており、啓孫が元信様の画体を理解したとすることができず、これは先の式部の例と対称的である。 このように東国の画壇に、中央の元信様式の理解や影響がどこまで及んだかを探る作品は、式部や啓孫の例を除けば、ほとんど見ることが出来なかったが、今後の作品の博捜によって、このことは明らかになってゆくと思われる。
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