1887(明治20年)の手工講習会における手工教育論では、わが国の手工教育は、スウェーデンのスロイド手工のような一般陶冶を目標とする手工教育と、フランスの「手の労働」科のような職業陶冶を主たる目標とする手工教育の両方の折衷を目指すものであった。これは、初等教育と手工教育との関連に対する我が国の認識を、欧米各国の手工教育のモデルを比較的な選択で取り上げながら示したものであったことが判明した。上原の手工教授法や手工講習会での工具教授、図画教授に見られるように、手工教育では学理、技術学、図画の学習と系統的な技能訓練を重視し、当時としては科学的な技術教育が志向された。これらは、上原が産業革命を経たヨーロッパの手工教育、特に世界的にみて技術教育が進歩していて、以前から文部省内で注目されていたフランスの手工教育(travaux manuel)を参考に子どもの発達に応じながら工業技術教育を目ざしたこと、また手工講習会における図学、木工・金工具の講習が我が国の生産技術水準からしてレベルの高いものであったことに表われているように、生産労働・生活を科学的に改善する能力を育てるという進歩的な考えが含まれていたと見ることができる。この考えは、我が国の遅れた工業を改善・近代化し、生産力を高めるために実業教育の振興を主張し、実業教育の一環として、実業の端緒を知らせる目的をもつ手工教育を普通教育として行い、学理・図画・技術学の学習と系統的な技能訓練を進めることによって生産労働・生活を科学的に改善する能力を育成しようとした手島精一の考えと同じであった。しかし、手島には、こうした工業の近代化への主張と同時に、生産労働・生活に対する社会科学的洞案の育成の主張の欠如があったのと同様に、上原の手工教育理論にも欠如があった。こうした限界は、森有礼の「勤労」精神の養成のための手工教育に取ってかわることになった。
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