研究概要 |
植民地における教育について、ザンビア大学のアンス・ダッタは次のように記している。 「植民地統治の初期、アフリカの宣教師たちは全く教育のない人々に教育を持ち込むのだと信じていた。教育という言葉が、識字および学校制度と等しいものだと仮定すれば、その通りであろう」(Ansu Datta Education and Society : A Sociology of African Education Macmillan 1984 p.2)。 植民地にされた人々の就学は高い中途退学率を示して、上学年になるほど少ないピラミッド型の就学構造になっていた。植民者と植民地にされた人の教育段階に差をつけ、特に植民地にされた人の中等・高等教育を制限したことは、教育終了後の就職時に、教育年限の違いを理由として、被植民地人に植民者より低い待遇を与える目的があった。ダッタは植民地教育の特徴を次の点に求めている。 「内容においては、完全にヨーロッパに片寄り、一般教養に重点を置き、職業、技術、専門教育を無視した」。 「子どもたちの多くは、学校を短い期間で辞め、せいぜい少しの読み書きができるだけだった」。 「中等教育は無視された」(Ibid.,pp.16-18)。 植民地下において押さえつけられた「学校」制度に対して、開放後は、「学校教育」の大拡大が図られた。植民地独立後、必ずしも十分な経済発展がすぐになされた訳ではない。同じような、あるいはさらに貧しい経済状態の中で、「国民国家」形成のために、初等教育の普及に力が入れられた。しかし、その一方、経済的格差の大きな、発展途上の経済において、「学歴」の違いが、その個人の経済的状況の大きな違いをもたらしてもいる。 解散後の教育を通して、「国家」と教育、教育と経済の問題も解明していく事が期待される。
|