日本による植民地時代の済州島居住者(ネイティブ)の大半は、自らのムラ以外の人々との接触が限られており、隣ムラとの自村との関係で自らのムラアイデンティティを持ちえたと考えられるが、廉価な労働力を必要とした日本の資本主義による政策の一環で済州島-大阪航路が始められると、それまでにない規模での済州島人による済州島-大阪間の往復が始まり、済州島の他村出身者、朝鮮半島出身者とそれに「日本人」との間の権力関係に位置づけられるようになり、ムラアイデンティティ、済州島人アイデンティティ、それに朝鮮人アイデンティティというアイデンティティが重層化していった。このアイデンティティの重層化にはミクロレヴェルの権力関係とマクロレヴェルの国民国家によるアイデンティティ形成が連関している。さらに済州島人は現在にいたるまでネットワークコミュニティを維持してきたので、このネットワークがムラアイデンティティ維持と関わっている。 済州島人密集地である大阪の生野は、大正時代までは都市近郊農村にすぎなかったが、大阪が「東洋のマンチェスター」と呼ばれる頃になると、中小のコ-バがつくられ、「ムラビト」と「ヨソモノ」、それにその「構造」の外部に位置づけられた「朝鮮人」の住むマチに変貌していった。ところが、戦後「日本人」のカテゴリーが強化され、「日本人」と「朝鮮人」の権力関係によって「ムラビト」と「ヨソモノ」の権力関係を覆い隠されるようになった。「日本人」は国民国家によって創られた言説であるが、国家次元の言説が地域社会の権力関係と関わることで、その言説が実体化されていった。以上の記述・分析によって、権力関係によって「民族」、「国民」アイデンティティが言説から実体化していく過程が明らかになったといえる。
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