本国との海上交通が遮断され、実質的な経済関係や軍事関係の弱体化したヴィシー期のインドシナは、世界情勢の激動、体制の変化、独立運動の発展、日本との交渉といった多くの問題に直面した「政治的」な時期であると同時に、「文化」を扱うことの重要性が強く認識された時期にあったといえる。支配の弛緩を補うためにも、フランス当局は、植民地の伝統や文化を「承認」することで、現地住民の掌握とフランス支配の強化をめざした。それは同時に、植民地支配にとって刃ともなる両義的な側面をもっていた。フランス当局の意図はしばしば裏切られ、あるいは現地住民によってたくみに利用されたといえる。この危険性を当局は認識してはいたが、アジアの団結を訴える日本の存在をまえにして、現地住民の関心をひき、ヴィシー体制の「新しさ」を強調する政策を策定・導入せざるをえなかった。自らの文化や伝統に対する意識を高めさせることが、日本の支配を拒否させることにつながると考えたわけである。しかしそれは、フランスも含む外国の支配の否定に帰結する可能性をもっていた。それを避けるために、「インドシナ連邦」の団結を強化しようとしたが、植民地権力が作り上げた枠組みを実体化するためには、結局、それを構成する各国の文化を寄りどころにするほかなかったのである。反動的、抑圧的、非民主的なヴィシー体制は、それまでの第三共和制の根本的原理をすべて否定し、同化主義の放棄や、伝統や秩序の重視による支配の強化を目指し、はからずも、現地住民の自らの文化や帰属への意識を促進させる機会を与えることになった。共和主義が断絶した地点にあらわれたインドシナ統治政策の新たな展開は、ヴィシー体制に日本の占領というファクターが関わることで可能となったのであり、まさにこのヴィシー期の植民地政策が、インドシナ各国の脱植民地化を促進することになったといって過言ではないだろう。
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