今年度は、精神病者が無責任能力者として法の埓外に置かれる時に何が起こるのかという問題と、そこで新たに形成される精神病者像が、病者を支えていた宗教的アジールにいかなる影響を及ぼすのかという問題に焦点を当てて検討してきた。 まず、第一次大本事件と天理研究会事件における精神鑑定を取り上げ、憑依が無責任能力状態であるか否かを争うことが、犯罪の理由を刑罰の基準とするはずの刑法においてなお、不敬の理由に一切踏み込まないまま刑罰を下そうとする法を越えた暴力を出現させる鍵となっている問題を論じた。次に、罪を犯した精神病者が免責されることが問題として浮上する過程で、彼らの危険性がいかに誇張され、死ぬまで続く監禁を正当化するのかを検討した。罪を犯す原因が病気に一元化されることで、彼らが罪を繰り返す危険性も自明視されたのである。またそこから、病者の危険性は、まだ何の罪も犯していない病者にも拡張され、精神病院は病者を決して外に出さない監禁施設であることを要請されていく。病者や家族を支える共同性を保っていた宗教的アジールが精神病院に転化する時、病者はそうした共同性から切り離され、脱走の恐れがあるか否かという判断に基づいて二極化された。このように、法の坪外に置かれることで、司法的判断以前の次元で強調された病者の危険性は、宗教的アジールにおける病者の処遇までをも変容させ得たのである。 病者が法の埒外に置かれるということは、病者に相対する権力が法の制約を受けず、病者の権利保護を一切無視できるという事態に他ならない。だからこそ、病者は無期限の拘束による「死刑に優る何百倍の苦しみ」を味わい、法を侵犯していない病者まで危険性が問題視されていくのである。このような、精神病と司法との関わりが病者に与える処遇の問題性は、今日なお、形を変えて存続しているはずである。
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