18世紀にアルマナック、動物、植物図譜にはじまった蘭書の輸入は、ロシア船が蝦夷地、奥州、安房などに現れると、地理書にその関心が移って行った。マリンの蘭仏辞典は、フランス語の学習のためではなく、オランダ語の辞書として使われたが、この辞書がたびたび注文されるころには、江戸の蘭学者のオランダ語の学力も飛躍的に向上した。18世紀末から19世紀はじめには、ナポレオン戦争の余波がバタヴィアにも及んだが、このころに、蘭学は大いに発展し、さまざまな書籍が注文されるようになった。この時期に蘭書は、個人の危険負担でこれをもたらすオランダ人にも、あるいは長崎奉行、地役人、通詞たちにも大きな利益となり、これらの人々が個人的にさまざまな種類の書籍を注文するようになった。蕃書調所、長崎海軍伝習所があいついで開設されると、輸入蘭書は大きな変化を見せる。出島商館長のドンケル・クルチウスは、海軍の訓練のためには、その基礎となるオランダ語の学習が不可欠であるとして、自分でバタヴィアに蘭書の注文を出した。それらの本は小学校用の読本、物理、化学、数学などの入門書であり、1冊あたりの単価か安かった。これらは同じ本が300冊も輸入されたものもあり、各地におこった私塾で教科書として使われたものと思われる。一方幕末に沿岸防衛の必要を痛感した西國の諸大名は、要塞の築造法などの本を買い入れたが、これらは高価だった。1858年に輸入蘭書は12600冊あまりに達した。
|