教典論は近代の宗教学の出発点であったにもかかわらず、この分野を固有の形で展開する試みは長い間現れてこなかった。しかしキリスト教の聖書研究における方法の推移は、従来の閉鎖的状況を自己批判的に突破する可能性を開き、他方、聖書学・宗教学以外の学問の領域で芽生えた新たな問題意識のいくつかもこの聖書研究の動向と対応している。それによって、宗教学の課題としての教典論があらためて再認識されるにいたった。今や宗教文化財としての教典は、文化全体のコンテクストの中でその機能を問われ、そこでなお宗教の機能との重なり合いが見い出される限りにおいて、教典であり続けることになる。 例えば、日本における聖書の受容の仕方を振り返ってみると、そこには明らかに一つの傾向が見い出される。すなわち日本人は、近代化を進めていく過程で、聖書に対して強い関心をいだき続けてきたが、それは、聖書そのものの中から欧米人のものの考え方をさぐり出そうとする性急な発想に基づいており、聖書を用いる宗教文化のコンテクストを全体として理解するにはいたらなかったのである。無教会主義運動はそのことを典型的に表している。(以上は主として土屋の研究成果である。) また、近代欧米のキリスト教史の目を転ずるならば、そこでも教典研究は興味深い事実を浮き彫りにしてくれる。宗教改革の最大の特徴はしばしば信仰義認論に求められるが、これに対してデュルケムはそれを聖書の自由検討に求めている。これは、個人化・多元化・合理化といった近代化の主要な特徴が教典に対する態度として現れたものである。これは一例にすぎず、教典の扱われ方、意義、機能の歴史を追うことによってキリスト教の性格の変化、近代化の進展の度合いも従来のその種の研究とは違った視覚から捉えることができるのである。(以上は主として宇都宮の研究成果である。)
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