7年度に引続きラクタンティウスの「知恵」及び「知者」の理解を検討した。かれは「キリスト教のキケロ」と称せられるように、とくにローマ的・ストア的知者の概念に強く影響されており、それがイエス・キリスト理解にも投影されている。そこからまた、かれが知恵と知者を論じる際に、自らをも知者の列に加えていることが明らかになる。 かれによればイエス・キリストは天的な知恵をもたらした知者である。グノ-シス主義のように「グノ-シス」の啓示者ではないが、キリストは知恵の啓示者として知者なのである。ここで重要なことは、知恵を探求するがゆえに知者であるのでなく、知恵をもたらし、知恵をあたえるがゆえに知者と考えられていることである。この点でラクタンティウスは、ストア的人間主義的な知者論に完全に支配されているのではないことが明らかになる。そこには旧約の知恵文学の伝統における神のヒュポスタシスとしての知恵の観念が直接ではないとしても働いている。しかし知恵文学における知者の深刻な自己省察は、ラクタンティウスには稀薄であって、このためストア的知者論をキリスト教化することには成功していない。かれに依然としてラテン的教養人の域にとどまっているのである。
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