近代の倫理学を代表する義務倫理と功利主義という二つの流れは、道徳的行為を規制し導くものを「原則ないし目的」として定め、それらを普遍的合理性の観点から彫琢してきた。しかしそれは複数の原理の間の解消不能な対立状況を招くだけでなく、個別の状況に対する各人の認知的反応の形成の面、ひいては行為の喚起力の面での無力さを露呈した。そうした反省から近年では、伝統や慣習、具体性を重視する徳の倫理が新たな流れを形成しつつある。しかし徳の倫理の復権は、批判を欠いた頑なな保守主義に陥る可能性もある。そこで本研究では、近代啓豪的合理性をふまえた現代において、徳倫理を論ずることにどのような意義があるか、という問題意識を背景に、道徳の相対性と客観性という論点をめぐって考察をし、以下の諸点を明らかにした。 1. 近代倫理が古代の徳倫理を乗り越えざるを得なかった事情の一つに、コスモスや人間の目的の喪失ということがある。そうした究極目的の喪失状況下で(功利主義のように他の目的を代用することなく)倫理学を語ろうとするとき、徳もまた義務倫理の内に包摂され再定義さえることを、カントの思想によって検証した。 2. 近代倫理の諸概念は空虚で抽象的で(生命倫理など)具体的問題状況に応えることができない、という徳倫理からの批判に対して、近代倫理の側を超越論的観念論としての実在論(パットナムの内的実在論)の観点から見直すことで、新たに開ける徳倫理とリベラルな正義論の統合の可能性を模索した。 3. 視点拘束的な内的実在論において、自己の限界を乗り越え反省や批判をなしうる可能性は、外在的(超越的)視点を確保によってではなく、むしろ多元的な世界を自分の中で生きることで出会われる複数のアスペクトの獲得と、ある種の反省的均衡によって達成されるという見方を提示した。
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