本研究は、ロシア法思想史から19世紀後半から20世紀初頭のロシア人の秩序意識を分析したものである。その際、二つの問題に焦点を絞った。第一は、専制権力とミール共同体についてのロシア人の考え方である。ロシアの政治秩序の特殊性が専制にあり、社会秩序の特殊性がミール共同体にある、他方で、西欧の政治秩序の特殊性が代議制度にあり、社会秩序の特殊性が階級制度にある、という思想は19世紀以来ロシア人によってたびたび表明されてきた。したがって、専制と代議制をめぐるロシア人の議論の中から、彼らの政治秩序、社会秩序にかんする意識が浮かび上がってくるのである。第二の問題は、社会政策に関する問題である。19世紀中葉までの西欧の法思想の特徴は私法の優越にある。自由な諸個人の契約こそがその根本原理であった。しかし19世紀後半から20世紀にかけての社会問題の深刻化は、今まで私的領域とみなされていた経済領域への国家の介入を不可避なものとさせた。ここに私法の優越から公法の優越という西欧法思想の転換が生じる。ところが、ロシアの法思想は、反対に公法の優越から私法の優越へと転換するのである。専制権力の抑圧から個人の自由を擁護することが、19世紀後半のロシア法思想の重要な課題であったためである。しかしロシアでも19世紀後半には社会問題が深刻となった。この社会問題に大きな関心をはらったのが、ロシアの宗教思想である。つまり、ロシアでは法思想が個人の私的自由の擁護と政府の介入の抑制を要求し、宗教思想が政府の社会政策の充実を要求したのである。この法思想と宗教思想の奇妙な相互補完的な関係の中に、19世紀末のロシアの秩序意識の特殊な性格があらわれているのである。
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