第二次世界大戦直後から中国と日本が国交を回復する1972年までの約37年以上にわたって中国に「残留」し、国交回復後に帰国した日本人及びその家族を中国帰国者という。彼らに関する研究は、単に彼らの生活実態や生活構造、価値観、行動パターンそして意識と論理を教えてくれるだけではなく、彼らと日本社会との相互作用によって生じた状況から、日本社会の本質をも照らし出す際立った視点を提示している。 中国帰国者は、その定義からも明らかなとおり、日本社会で極めてユニークな戦後を生きた人々であり、彼らの生活現場は引揚者というマイノリティの社会問題であるだけでなく、日本と中国への二重帰属性というエスニックス研究の最新の課題でもある。さらに、日本帝国、満州帝国、中華人民共和国そして現在の日本社会を生きた個人の人生は、戦争と国家そして個人を考察する戦争論の格好の研究課題を提示している。具体的には、中国に「残留」し帰国してきた本人たちは、戦争というもっともナショナリズムが先鋭化する状況で敵国に放り出された体験、憧れの母国で拒絶された体験が彼らの深層にトラウマとして残り、彼らの子どもたちは学校体験のなかで中日の学校文化の違いだけでなく、マイノリティとして思春期の鋭敏な感覚のなかで否定的アイデンティティと向き合わされる。秀才は、受験戦争に適応する過程で自分自身を消し去ることからアイデンティティの揺れと再確立に苦悩し、日本の学校社会で自己を主張するものたちは落ちこぼれのレッテルを貼られ、時には暴走族的下位集団などを形成し学校社会=日本社会に逸脱的に「適応」する。 一方、彼らを支援する制度は、マイノリティや外国人に関する適応という名のソフトな同化行政の視点が凝縮されている。現場の自立指導員の熱心な支援は、「一人前の日本人になる」ことの強要でもあるというアイロニカルな構造がある。また、日本語学級も、ある面では帰国者や外国人子弟の日本語習得の助けとなるが、他面では障害児を普通学級から特殊学級に「排除し隔離」することと同じ構造をもつ。そして、中国帰国者を中国人というスティグマを貼る視点は日本人のオリエンタリズムを投影している。このように、中国帰国者と日本社会との相互作用によって生じた状況は、日本社会を写す見事な鏡のひとつであろう。
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