本研究は幕末期における国学を対象として、その受容と普及の視点から思想的・実証的に考察し、近世における人と学びとの関わりを解明することを目的として行ったものである。研究成果の概要は次の通りである。 1.近世の国学の学問的大成者とされる本居宣長をとりあげ、近世における道をめぐる議論の中に宣長学の中心的テーマであった「人の道」の言説を位置づけるとともに、人の道の学びと日常生活における人としての行いとの内在的関連を、非規範的な秩序としての「世間の風儀」との関係において考察した。 2.本居宣長の学問を継承し、また平田篤胤とも交渉のあった近世後期を代表する国学者、備中吉備津神社の藤井高尚〔明和元年(1764)〜天保11(1840)〕をとりあげ、高尚の国学受容の特質を、彼の著作『浅瀬のしるべ』の執筆意図の考察と内容分析を通して明らかにした。高尚の宣長学受容は、歌文の学の摂取を目的としただけでなく、宣長学の古道思想あるいは「神の道」の思想への関心からなされたものであり、この関心が『浅瀬のしるべ』を一種の教訓本として成立させたものであることを明らかにした。 3.国学の地域における受容と展開について、平田篤胤門人、羽田野敬雄〔寛政10年(1798)-明治15年(1882)〕を中心に考察し、地方知識人としての国学者による営為の教育史的意義を明らかにした。羽田野敬雄は三河国吉田(現在の愛知県豊橋市)の田町神明宮と羽田村八幡宮の両社の神主であった。羽田野は三河における最初の平田篤胤の門人として、幕末から維新期にかけて平田国学の普及と文化的啓蒙に取り組んだ国学者であり、羽田野の事例によって幕末期における国学受容の一つの典型を明らかにした。
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