研究概要 |
第三共和政初期のフランス大学改革におけるドイツ大学モデルの「転移」を、(1)フランス政府派遣少壮エリート大学人執筆の各学問分野に関する調査・研修報告(「高等教育協会」機関誌および『国際教育評論』誌所載、1878-1900年)、(2)M.collignon,Ch.Seignobos他10余名の上記報告執筆者のプロゾポグラフィーおよびフランス大学人の「界」への定位、に基づいて超領域的に考察することにより、以下の点について新たな知見が得られた。 1 報告に見られるドイツ大学観 (1)普仏戦争以前にドイツ大学に学んだ世代とは異なり、ドイツ大学の盲目的模倣の限界を示そうとする考慮、つまり、「転移」可能なものは大学を構成する個々の要素の域を越ええないという共通の認識が見られること、(2)講義、学生、教授、インスティトゥートおよびゼミナール等ドイツ大学における具体的な教育・研究の関しては、肯定的評価と否定的評価が相半ばして両義的であり、唯一共通に評価されているのは科学の工房としてのゼミナール、教授間における競争という側面のみであること。 2 フランス大学人の「界」における報告執筆者 彼らは執筆の時点において、年令的にはいうまでもなく、学問的にも職業的にも、フランスの大学人の「界」の周縁に位置するが、しかし、彼らの軌跡および将来における軌道から見ると、フランスの教育システムが生み出した最も正統的・エリート的な革新的「相続人」であること。 3 人間諸科学のアカデミック・キャリアー化 ドイツ大学モデルの部分的「転移」の具体例を視野に入れつつ、執筆者の集合的心性の観点から報告の言説を考察すると、この時期におけるドイツ・モデルの「転移」は、フランス大学人の「界」に同化可能な限りにおいて、しかも、新たに勃興しつつあった人間諸科学の諸領域をアカデミック・キャリアーとして確立するのに裨益する限りにおいて行なわれたこと。
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