研究概要 |
1.中部ヨーロッパ(オランダからバルト3国まで)に広がったドイツ語文化圏内におけるイエズス会コレギウムの、およそ200年にわたる全体的発展動向が数量的に明らかになった。(18世紀前半に10管区約220校)。 2.南(高地)ドイツ管区では、5校(1574年)→10校(1600年)→17校(1642年)→27校(1725年、1742年、1770年)と発展しており、ミュンヘンなど数校の1700年前後の学校外観図が明らかになった。 3.史料『1773年版南(高地)ライン管区カタログ』によれば、当時15校を数えたイエズス会コレギウムは、 (1)a.人文学過程のみ、b.人文学過程に哲学過程を持つ学院、c.その他の大学の神学部と哲学部をイエズス会が担当するとともに人文学過程を持つ学院の、以上3グループ各5校にきれいに分かれること。 (2)そのうちcタイプは、人文学過程が初級・中級・上級の文法、詩学、修辞学の5クラス5教授体制、哲学過程が論理学、自然学、数学、倫理学、形而上学の5教科3教授体制、神学課程がスコラ神学1・2、倫理神学、教会法、聖書、ヘブライ語の6教科5〜4教授体制を基本型にしていること、などが判明した。 4.1770年代初頭のオーストラリア管区では、3課程が完備し、生徒数が1,000人を超える「大きな学院」から文法クラスのみの「小さな学校」まで、全体で58校のイエズス会学校を数えたが、その全生徒数は、 (1)上級課程(神学と哲学)16校に3,612人、下級課程(人文)に12,303人、合計15,915人を数えた。 (2)伝統的教科以外にも、フランス語などの近代語、歴史、力学などの近代的実学を教える学校が12校あった。 (3)オーストリア管区の東半部(ハンガリー地域)では、全体で8,105人の生徒数を数え、同地域13〜17歳の青少年男子人口の約2..5%がイエズス会コレギウムに学んでいた計算になる。
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